第一章 二人の魔女


■《視点 リーゼ》■


「……ひどいな」

 夜の静寂に、私の声だけが響く。
 人気の無い裏路地は、夜の闇と相俟って生きた気配というものが無かった。すでに終わっている、というべきか。
 そんな場所に佇みながら、私は足元へと視線を投げかける。
 ぴしゃり、と水をはじくような音。
 一歩動いただけで、赤い水溜りが音を立てる。
 真っ暗にも関わらず、赤と認識させられてしまうほど強烈な色と、匂い。血臭。

 ……いい匂いじゃない。むかむかする。

 血の池の真ん中には、骨と内臓がむき出しになった、人間だったものが転がっていた。

「人食い、か……。初めて見た」

 凄惨な光景といえばそうなのだろう。でも私は僅かに表情をしかめた程度で、そのまま死体の様子の確認を優先させた。
 その死体は……一言で言えば食い散らかされた後、だった。
 しかも野犬の類がやったというわけでもなさそうだ。
 気持ち悪いけど、死体の傷跡に指を突っ込んでみる。
 そこに挟まっていたのは、人間の歯らしきもの。

 ……はあ。

 無理に食いちぎろうとすれば、こうなるのも当然か。
 まったく趣味が悪い……!

「先を越されたか」

 死体はどう見ても、まだ食べかけである。何かしらの理由で食事を中断せざるを得なかったのか、単に腹がふくれただけなのか。
 前者であると、迷わず私は判断した。
 血溜まりのすぐ傍で、地面に筋状に穿たれた亀裂。

 少し急いだ方がいい……か。
 そう判断し、私はその場から駆け出した。


■《視点 シャレム》■


「ウがぁあアアあアアっ!!」

 人のものとは思えぬ奇声を上げて、その人間だったモノは飛びかかってくる。
 見たところ、青年くらいの歳の男だった。
 しかしその顔は異常に青白く、白目を剥き、それとは対照的に口の周りは真っ赤に染まっている。
 自身が着ている白衣ですら、どす黒く染まり切っていた。

「――食人鬼、ですか。汚らわしい」

 わたくしはそう切って捨てた。
 こんなモノ、存在の一片だって認める必要はない。
 戦意を高めつつ、こちらへ向かってと襲い来るモノに向かい、わたくしは腕を一閃させた。

「ギャアアルアアア!?」

 悲鳴と共に、青年の姿をしたモノが発火する。

「火葬はこの国の流儀ではありませんが――」
「!!」

 燃え盛る炎に目を向けていたのも束の間で、わたくしは弾かれたように背後へと跳んだ。
 全身から炎を吹き出しながらも、ソレが猛然と突進を再開したからだ。

「ずいぶんと、しつこい死体ですこと!」

 更に腕を一閃させれば、吹き上がる炎の威力は倍増した。
 その威力に身体の各部が崩れ出し、無理に前進しようとしたソレは、無残に崩れ落ちていく。
 ここまで、ね。

「ふん……。どうってことありませんでしたわね」

 ソレが完全に燃え尽きたのを確認してから、わたくしはさらりと髪を掻きあげてみせた。
 たった今死体が動き回り、燃え尽きた陰惨な場にあって、それでもわたくしは努めて優雅に振舞ってみせる。
 わたくしが身にまとっているのは、この国と隣国では一般的な聖職者の僧衣であるが、色と装飾、デザインが一般的なそれとは微妙に異なっていた。
 無愛想な僧衣をわたくしなりにいじった結果である。だって野暮ったいったらないんだもの。
 髪をかき上げ、小さく息を吐く。

「それにしてもリーゼったら、どこで道草しているのかしら? 所詮、わたくしと組むにはまだ―――」

 思い起こしたのはわたくしのパートナーである。
 でもそんな相手のことに思いをはせる余裕は無かった。

「!っ」

 はっとなって振り返る。

「シャレム!」

 警告の声は、わたくしが身体を捻るよりも一拍遅れて響いた。

「ギシャアアアアっ!!」
「!!」

 異様に伸びた爪が、辛うじてかわしたわたくしの頬をかすめ、赤い線を引く。

「もう一体いた……?」

 さすがに驚きを隠せず、目を見張る。
 もう一体……!
 先ほど燃やし尽くしたモノと同様、白衣を着た人間だったモノ。今度は女。
 迂闊だったことよりも、顔に傷をつけられたことのほうにカッとなった。

「よくも……っ」

 間合いすら取らず、そのまま燃やし尽くそうと腕を振り上げたところで、ソレの頭が吹き飛ぶ。

「――……」

 それで、ソレは動かなくなった。
 拍子抜けしたようにわたくしは死体を見返してから、今度は不快げに面を上げる。

「油断だぞ、シャレム」
「……誰が油断ですって?」

 シャレム、というのはわたくしの名前である。
 その名を呼んだ相手を見返せば、そこには自分と同じ年頃の少女が佇んでいた。
 たった今、人間だったソレの頭を吹き飛ばした少女である。わたくしよりやや小柄な体系で、異国の少女だった。名前はリーゼ・クリストという。
 正確には、わたくしよりも一つ年下だったかしら。
 あらゆる面でわたくしの方が先輩にあたるはずなのだが、このリーゼという少女ときたら、あらゆる面で生意気だった。……少なくともわたくしはそう認識している。

「もう一体いたのに気づいていなかっただろう?」

 早速生意気にそんなことを言ってくる。

「気づきましたわ。貴女に言われるまでもなく」

 一応、事実である。
 実際あの瞬間、リーゼの警告よりも早く、わたくしは反応できていた。できてはいたけれど、際どかったのは確かだし、何よりそんなぎりぎりまで反応できなかったのは不覚といえば不覚か。
 わかってはいるけれど、はいそうですごめんなさいなんて、口が裂けても言えるものですか。ふん。
 一方のリーゼは興味無さげに首を振ると、しゃがみ込んで首なし死体の衣服をあさり始める。……何ていうか、年頃の少女がする行為じゃない気がする。

「まあ、下品な」

 その動機はもちろん理解しつつも、結局わたくしは反射的に皮肉を交えて非難してみせた。

「……うるさい。証拠ごと燃やしてしまうお前に言われたくない」

 ……む。
 だって咄嗟だったのだし、あんな汚らわしいものは燃やしてしまうに限るじゃないの。
 わたくしの皮肉にも気にすることも無く、リーゼが胸ポケットより取り出したのは、血でかちかちになった故人の財布だった。

「……何か、個人を証明するものでも出てきましたの?」

 下品とは言ったものの証拠となればやっぱり気になったので、わたくしは彼女の背後から控えめに覗き込んでみた。

「カードがいくつか……。うん……? これは」

 リーゼが手に取ったのは、一枚の身分証のようなもの。
 セキュリティカードの一種のようで、故人が所属していたと思われる民間企業の名称と、個人の名前が記されている。

「シャラ=イスタ……?」
「何ですって?」

 一瞬耳を疑った。思わず身を乗り出してしまう。
 わたくしはリーゼから身分証を奪い取り、食い入るようにそれを確認した。

「……知っているのか?」

 不審げに、リーゼが尋ねてくる。

「…………貴女こそ、ご存知ないの?」

 すぐには答えられず、微妙な間を作ってしまったことに後悔しつつ、それでも極力面には出さないようにして、わたくしは質問を返した。

「知らない」
「……いったい何年この国に住んでいるのかしら」

 大袈裟に呆れてみせてやれば、む、とリーゼは不満そうに眉を寄せる。

「うるさい。それより何なんだ。その、シャラ……何とかというのは」
「アジェステリアでは最大の製薬会社ですわ」
「…………。やっぱり知らない」

 少し考え込んでみたようだったけれど、やはり彼女の記憶にその名前は存在しなかったらしい。まあリーゼには無縁といえば無縁だものね。

「貴女ときたら……。本当に世俗には興味無いのですわね。たまには新聞くらい読んではいかがです?」
「読んでる」
「別に不祥事を起こしたとか、事件性のある記事では載ったことは無かったと思いますわ。経済面をお読みなさいな」

 この指摘は的確だったようで、さすがにリーゼも黙り込んでしまった。
 読んでいるといっても隅々まで読破しているわけじゃないでしょうし、経済面など子供にとってはそれこそ興味の無い分野であることは、まあ一般的といえば一般的である。

「どうやらそこの研究員のようですわね。もう一人も、恐らく同じでしょう」

 地面にわだかまった消し炭に目をやりながら、わたくしは断言した。
 リーゼは確認していないだろうが、もう一人も同じような白衣姿だったのだ。

「何か関係があるのか? 今回の事件と、その製薬会社と」
「さあ……。そんなことはわたくしには分かりかねますが」

 曖昧に言葉を濁すと、リーゼの勝ち気な瞳がじっとこちらを見つめてきた。探るような瞳にも見えたが、それも僅かなことだった。

「これからどうする?」

 軽く周囲を見渡しながら、リーゼが尋ねてくる。
 ぞんざいな態度はともかく、一応指示を仰いでいるらしい。

「まだ他にいる可能性は?」
「あると思う」
「では捜索を続けましょう。ですがリーゼ、あなたはここの後始末をなさい。ここから少し奥まった所に、犠牲者の遺体もあったことですし」
「……ああ、それは私も見た。始末は構わないが、シャレムは?」
「ですから捜索を続けますわ」
「わかった」

 特に反論せずに、リーゼは頷く。
 事後処理は必要である。このまま朝になれば、また大騒ぎになってしまう。

「――では任せましたわ、リーゼ。くれぐれも手抜かりのないよう」
「お前こそ。もう油断はするな」
「っ……。しつこいですわね。嫌われますわよ」

 これだからこの小娘は……ふん。
 考えるのはやめて、わたくしは一人先へと進んだ。

「……別に嫌ってくれても構わないが」

 去り際に、それこそ興味無さげなそんな声が聞こえたような気もした。


■《視点 リーゼ》■


 アジェステリア公国。
 スイス、ドイツ、オーストリアと国境を接する小国で、アジェステリア三国と呼ばれる連邦の中では最も領土が大きい国家である。
 アジェステリアはかつて大公国として、神聖ローマ帝国の構成国家の一つだったらしい。しかし十九世紀に入り、神聖ローマ帝国の崩壊後にはライン同盟に参加。ライプツィヒの戦い以後、ドイツ連邦に参加することなく独立を維持することになる。

 この神聖ローマ帝国の崩壊とナポレオン戦争のどさくさで、アジェステリアに内乱が勃発したという。大公国の辺境貴族であったトルメスト城主ヨハン・ラインヴァルドが反旗を翻し、内戦状態へと突入。
 その結果、コルセシア、ゼルディア、クリセニアといった西部領土を併呑し、ヨハンは大公を名乗り、独立に至る。トルメスト大公国の成立である。
 この内乱により、弱体化したアジェステリアに見切りをつけるように、アジェステリアの主要宗教都市であるジュリオン市が独立してしまった。このジュリオンを緩衝地帯とし、ジュリオンの僧会の仲立ちもあって、両者は和睦することになる。劣勢だったアジェステリアは自ら国家の地位を公国に落とし、トルメストの独立を認め、どうにか不可侵条約の締結にこぎつけることになった。

 その後アジェステリア、ジュリオン、トルメストは対外的に共同体であるアジェステリア連邦を成立させ、永世中立を謳い、二度の世界大戦も隣国スイスと共に中立を貫き、現在に至るわけである。



「――いったいどういうことですの!?」

 昼休みになった途端の出来事だった。
 まだハイティーンにも関わらず、すでに充分淑女としての品を備えた学園一の才女が、事もあろうに優雅さからは程遠いほど肩を怒らせて、下級生の教室に怒鳴り込んできたのである。
 教室内にいた生徒達は、ぎょっとしたように入口の方を見やって、すぐさま視線を逸らした。
 視線が合った途端に射殺されかねない剣幕に、誰もが反射的にとった自然な防衛反応である。

 ……まったく、うるさいのが来た。

 のそのそとみんなとは遅れるかたちで、私もそっぽを向くことにする。
 まあ……たぶん、そんな私の行為がわざとらしく映ったのだろう。怒鳴り込んできたシャレムにめらめらと怒気の炎が膨れ上がったようだった。
「リーゼ!!」
「……うるさい。怒鳴らなくても聞こえる」
「うるさい、ですって? またずいぶんな口の利き方ですわね――」

 そのままずんずんと教室内へと侵入してくるシャレムから避けるように、クラスメイト達が引いていく。残されたのはただ一人、窓際に座る私だ。
 腕組みし、ずん、と仁王立ちして睥睨してくるシャレムを見返して、私はいつものようにため息を洩らしてやった。

「……もう少し普通に入ってこれないのか? みんな、怯えてる」
「ふん、下々の者と馴れ合うつもりはありませんわ。庶民は庶民らしく、隅で大人しく控えていればよくてよ」

 偉そうに。

「貴族だからって威張るな。今時」

 動じた様子など微塵も見せずにつぶやいてやれば、今度はシャレムの方が軽く吐息したようだった。

「……まったく。貴女くらいですわ。古くからの権威をこうもあっさりと見下すことができるのは」

 やれやれと、これ見よがしにシャレムは肩をすくめてみせる。
 この偉そうな女――シャレム・アーレストは、隣国ジュリオンでは名門中の名門、アーレスト伯家の出身である。一応貴族さまというやつか。
 ヨーロッパ最後の絶対君主制を維持しているトルメストほどではないにしろ、この国でも貴族性は色濃く存在しており、身分の差も激しい。
 そもそもこの学校は貴族が通うような場所ではないこともあり、彼女はほとんどこの学校に君臨している有様だった。誰もが頭を下げてしまうシャレムではあったものの、私はもちろんそんなことなどしたことがない。面倒くさいし。

 とはいえ相手は貴族である。この国は貴族が優遇されている法律もある。私の普段の言動は、シャレムがその気になれば不敬罪でも適用できる範囲のものであったのだけど、どういうわけか文句を言いつつもそんなことはせず、むしろ認めてしまっている雰囲気さえあった。
 まあ単なるクラスメイト、というわけじゃないからでもあるし。
 そういう意味ではシャレム同様、私も校内ではちょっと目立った存在だったりするのである。……望んでないのに。みんなシャレムが悪い。

「別に見下してなんかいない。ただ、私個人には関係無いだけの話だ」
「だとしても、それを実行しているのはわたくしの知る限り、貴女だけですわ、リーゼ」

 そう言うシャレムの表情が、少しばかり緩む。
 が、それもたちまち元の剣幕に戻ってしまった。

「そんなことよりも。貴女、勝手に昨夜のことを報告しましたわね?」

 おかしなことを聞いてくる。

「後始末をしろと言ったのは誰だ?」
「それとこれとどう関係あるというんですの?」
「どうって」

 さすがにその言葉には、私も呆れてしまった。
 昨夜の後始末――それを任されたのは私であるが、実際一人でやったわけじゃない。私やシャレムの所属するとある組織に連絡し、人員を派遣してもらった上でしかるべき処理をしてもらったのだ。その過程で事態の報告をしたことは、当然といえば当然の成り行きである。
 そんなことは考えるまでもなく、シャレムも分かっているはずなに……分かった上で、文句を言っているというわけか。だとすれば、正論で返したところで無意味ということだ。まったく……。
 貴族根性とでもいうのか、難儀なことである。

「……いったい何が不満なんだ?」

 ため息と共に、とりあえずそう聞いてみることにする。

「手柄を独り占めするなど、少々野蛮なのではありません?」
「手柄……?」

 どうしてそうなるんだ?

「惚けないで下さいませ! 昨夜の仕事はわたくしたち二人の仕事だったはずですわ。それを一人で報告してしまうなど、失礼にもほどがありますわ!」
「報告といっても仮のものだ。正式な報告はこれからだし、第一大した手柄でもないだろう。まだ解決していないんだから」
「……その余裕、本当に気に食いませんわね!」

 ぷりぷり怒ってみせるシャレムに対して、私は半ば本気で辟易した。
 実際のところ、よく分からないのだ。彼女が怒る理由が。
 だというのに事あるごとにつっかかられてしまう。一応相手は先輩なので、私なりに気を遣ってもいるが、それでもお気に召さないらしい。ごく単純に相性の問題かな、とも思う。もっともそれなら近づいてこなければいいのに、どういう理由からかシャレムは何かあるとはやってきて、とりあえず文句を言うのだ。
 最初は何だこの女はと思ったけれど、今となってはいい加減慣れたもので、さほど気にしてもいなかった。
 とはいえこうやって、僅かな休み時間を占領されてしまうのは困りものである。昨夜だって遅くまで動き回っていたものだから、それなりに疲労はたまっていた。目を閉じるくらいの休息をくれたっていいのに、とは思うのに……。このばか女。

「――シャレムちゃん!」

 と、救世主がやってきてくれた。
 その一声で、みるみるシャレムの顔が変わった。
 う、と振り返るシャレム。
 教室の入口に現れていたのは、また上級生だった。
 普段はほんわかとした優しい雰囲気の持ち主が、今だけは厳しい視線を向けてきている。

「カ、カリネ……」

 シャレムは悪戯を見つかった子供のように肩をすくめて、思わずその少女の名を洩らした。相変わらず頭が上がらないらしい。

「あまりリーゼちゃんをいじめないでと言ってるでしょ! それに学校で騒ぐのも禁止って!」
「わ、わたくしは別に……その」
「……私も別にいじめられてないぞ」

 私もシャレムもカリネと呼ばれた少女の言葉に不満はあったけれど、面と向かって文句を言うつもりなどまったくなくて。小さくつぶやくだけにとどめてしまう。
 校内で何かと有名なシャレムが頭の上がらない相手――それがこのカリネ・クリストという少女だった。……ちなみに私もそうだったりする。
 私たちにとってどういう相手かといえば、同居人であり姉であり、シャレムにとっては自分の従者を公言する相手でもある。

「……ごめんなさいね、リーゼちゃん。私がちょっと目を離した隙にいなくなっちゃって……」
「あ、うん……いい。シャレムは野良猫よりタチが悪いから、カリネのせいじゃない」
「なんですってーっ!?」
「ほらほら行くよ、シャレムちゃん」

 リーゼの暴言に声を荒げたシャレムを引きずりながら、カリネは手を振り笑顔で教室から出ていった。
 はあ……。なんか疲れた。
 ようやく静かになった教室で、ため息を一つ吐いて。
 眠たげに、私はぼんやりと窓の外を見やった。



 アトラ・ハシースと呼ばれるものがある。
 これは連邦においての最大宗教である僧会″に存在する、ある組織の名称である。その本拠はジュリオン市国であり、国外においてもそれなりに有名な名前だ。
 そのジュリオン市国において最大の建築物であるジュリオン大聖堂。増改築を繰り返しているものの、千数百年前からの威容をそのまま残した、歴史ある建築物である。
 その最奥――余人には立ち入ることのできないその場所に、私ともう一人の姿があった。同行人はシャレムである。

「相も変わらず陰気な場所ですこと」
「陽気な聖堂なんて聞いたことがない」

 私もシャレムも共に赤い僧衣を身につけていたが、これは僧会の中でもアトラ・ハシースのみに許された色だ。
 アトラ・ハシースとは僧会内の機関の一つであるが、現在では秘密結社という形が一番適当かもしれない。
 創立されたのは今から千数百年前で、この聖堂が建つ少し前のことだとか。創立目的は、当時急激にその数を増やしていた異端者と呼ばれる存在に対抗するためと伝わっており、今でも尚、その目的を至上としていることは間違いない。

 しかし実際には異端と呼ばれる存在は千年前にほぼ駆逐されており、かつてアトラ・ハシースが誇った圧倒的な権力も、今となっては昔のこととなっていた。
 それでも世界規模で見て、異端に対する組織としてここまでの規模と精鋭を誇っているのは他に例が無く、衰えたとはいえその力は侮れないものがあるのは事実である。
 私もシャレムも共にアトラ・ハシースに所属しており、また昨夜のことも、このアトラ・ハシースより与えられた仕事だった。

「お待たせをしました」

 一室に待つ私たちの元にやってきたのは、背の高い妙齢の女性だった。

「いえ、マスター・レアトリクス」

 私は背筋を伸ばし、一方のシャレムは優雅に一礼して挨拶をする。
 ……?
 表情こそ変えなかったものの、私とシャレムはお互いにさりげなく視線を交錯させた。

「あの、マスター・ローレッドはいかがされたのです?」

 最初に疑問を口にしたのはシャレムだった。
 今回の任務を私たちに指示したのはザイン・ローレッドという人物であり、アトラ・ハシースのマスターの一人である。報告は彼にするものばかりと思っていたのだが、実際にやってきたのはジークリンデ・レアトリクスという別のマスターだった。つまり、目の前の女性である。
 この年齢不詳の女性は私がアトラ・ハシースに入った時からマスターであるが、少しも歳をとった様子が無く、いったい何者なんだとささやかれている人物でもあった。
 とはいえこのアトラ・ハシースには妖しい技が多数収められている場所でもあり、非常識なことが往々にしてあるので、そこまでおかしなことでもないのかもしれないが……。

「マスターは所用で席を外しています。ですから私が代理で参りました。あと、彼からの伝言も承っていますので、最後に伝えましょう」
「わかりました」

 私は頷くと、シャレムへとさりげなく視線を走らせてやった。好きに報告しろ、との意味は伝わったようで、シャレムは当然とばかりにこれまでの経緯を説明し始めた。

 事件が報告されたのは、十日ほど前に遡る。
 アジェステリアで発見された他殺体。まずは警察が動き、検証と捜査を開始したが、とにかく異様な死体だった。
 一言でいえば、何かに食い殺されていたのだ。問題は何に、である。
 そうしているうちに、二日と経たずに同じ死体が発見された。今度は二体。死因は多量の出血による失血死だろうが、相変わらず死体はひどい有様だった。
 そして三件目。これは目撃証言が得られた。人が人を食ってる――そんな証言に、ようやく僧会のアトラ・ハシースへと地元警察から事態の説明と、捜査協力が要請されたのである。

 人が人を食べる――これは世界的にみても禁忌とされることの一つであり、明らかに異端とされる行為だ。
 歴史上、そういった行為が多数あったことは事実ではあるものの、それを認めている所などもはや存在しない。アトラ・ハシースとして動くには充分な理由ではあったが、それでも不思議なことに妙に対応が早かったのだ。少なくとも私はそう思っている。
 少なくともあの段階では状況証拠と目撃証言しかなく、実際に動くのはもう少し警察が精査した後でも問題無かったはずである。もちろん、連夜のように犠牲者が出ていることを憂慮したためとも取れるが……。

 それでも経験が豊富で有能なマスターであり、何かと忙しいザイン・ローレッドが最初から主導でするほどのものとも思えなかった。しかもその命を直接実行するために選ばれたのが私とシャレムというのだから、また首を傾げてしまう。
 私は十七でシャレムは十八という年齢であるものの、アトラ・ハシースにおける階位はアージェント第二位であり、マスターを除けばトップレベルに位置する秀才だ。マスターの中ですら、オーア第一位や第二位といった階位をもってマスターになっていないものの方が多く、単純な実力では私たちはアトラ・ハシースの中でも群を抜いているといえる。

 通常、同じ階位の者が組むということは滅多に無い。ある程度上位関係を明確にしておいた方が、行動しやすいという面があるからだ。しかし今回はどういうわけか私たちが選ばれたのである。ちなみにこれまで私たちが組んだ経験は一度も無く、実のところお互いに相手の実力を知らなくもあった。
 そういうこともあってか、どうやらシャレムにはもの凄く意識されているようで、随時視線が突き刺さってくるのを感じてしまう。それはまあいいとしても、一方で自分はどうなのかと思ってしまう。あまり気にしないようにしているものの、やっぱりシャレムの実力に関しては気になっているのだろうか。

 ……よく分からない、と思う。
 自分は強くなりたいと思ってきたし、ずっとそのために努力を欠かさなかった。目標だってある。むしろその目標しか見えていない自分に、時折何ともいえない気分になることもあるけれど……。

「――以上が、昨夜までの経緯ですわ。マスター」

 シャレムの声に、リーゼは意識を引き戻す。どうやら報告は終わったらしい。

「なるほど。よくわかりました。ではあなたたちの任務はここまでです。後日、文章にまとめて提出を」
「……え?」

 あまりにもあっさりとしたマスター・レアトリクスの言葉に、私は耳を疑った。

「どういう――ことですの? ここまで、とは?」

 それはシャレムも同じだったようで、どこかぽかんとしてしまっている。

「言葉通りの意味ですよ」

 淡々と、マスター・レアトリクスは告げる。
 言葉通りって……それは今回の事件の捜査から、私たちが下ろされたとしか、受け取ることができない。
 まだ何も解決していないっていうのに。

「納得いきませんわ!」

 すぐにも噛み付いたのはシャレムだった。
「人を襲っていたと思しきモノは、確かに二体、処理いたしましたわ。けれどもそれで全てと決まったわけでもなく、何より彼らは状況的に元人間とみて間違いないでしょう。そうなった原因、経緯が未だ不明だというのに、ここでやめろとおっしゃるのですか?」
「そう聞こえませんでしたか?」

 あまりに冷徹に響くマスター・レアトリクスの答えに、さすがのシャレムも押し黙ってしまう。それでもその面はどうしようもなく、不満で一杯だった。
 そんなシャレムの横顔を一瞥してから、努めて冷静に私は聞いてみる。

「マスター・ローレッドの伝言というのは?」
「リーゼ! 貴女はこのまま承知なさると言うの!?」
「いいから黙っていろ。たぶん――」
「察しかいいですね。リーゼ・クリスト」

 こくりと、マスター・レアトリクスは頷く。

「これはマスターの決定です。あなた方二人を任務から外すと」
「っな……」

 やはり、と思った。でも対照的にシャレムは怒りでみるみる顔が赤くなっていく。
 ひどい屈辱だと、そう受け取ったのだろう。
 一度与えられた任務を途中で外されるなど、よほど不適格と思われた場合にしかあり得ない。少なくともこれまで、そういった経験など一度だって無かったはずだ。
 もっともそれは私だって同じことで、容易に納得できない部分は多分にあったものの、隣でシャレムが代わりに怒ってくれているせいか、多少なりとも冷静に考えることができていた。
 どうして外されなければならないのか――やはり気になるのはそこだ。

「……納得できる説明を聞かせていただけるのかしら」

 全身から不快感を立ち昇らせて、ほとんど睨みつけるようにして尋ねるシャレムの態度は、もはや上司に対するものではなくなっていた。
 元々プライドの高い少女である。理不尽と感じることには、例え相手が誰であろうと折れないのが彼女の信条なのだろう。

「その必要はありません。この件に関しては、枢機会議がすでにマスター・ローレッドに許可していることでもあります。その際に今件に関する説明は、あなた方二人には不要という判断にいたっています」
「だからといって……!」

 どんな言葉でももはや納得しそうにないシャレムの隣で、私はマスターの言葉に眉をひそめていた。
 彼女の言った枢機会議とは、アトラ・ハシースの最高意思決定機関である。アトラ・ハシースの意思決定は時代によって変わっているものの、現在はかつてのような個人への権力の集中は行われておらず、マスターの中より選ばれた十人ほどの枢機会議と呼ばれるメンバーによって為されている。

 マスター・レアトリクスもその中の一人であるが、実際に枢機会議が機能するようなことは滅多に無いって聞いている。余程のことでも起きない限り。
 つまり今回の件は、枢機会議が動かなければならないほどのことだったということだろうか。
 だとすれば、自分達に情報すら降りてこないのも理解できるが……。
 ずいぶんきな臭いな……これは。

「シャレム、いい加減にしろ」

 抗議を続ける同僚に、私は鋭く叱責した。

「どうせどうにもならない。無意味に叫んでもうるさいだけだ」
「リーゼ! あなたには誇りはないのですか!? 見損ないましたわ……!!」

 珍しく――本当に珍しく本気で声を荒げて、シャレムはこっちを睨みつけてきた。
 普段以上の威圧をみせる彼女を前に、私も真っ向からそれを受け止めた。どうせ、捌け口は必要だ。面倒くさいけど、仕方が無い。

「所詮、あなたもただの飼い犬ということでしたのね。このような理不尽なことを前に憤ることもできず、ただ甘受することしかできないなど、あなたにどこかで期待していたわたくしが愚かであったということでしょう――……。よろしいですわ。ちょうどいいことです。あなたとのコンビもこれで解消ということになりますし、せいせいしますわ!」

 まくしたてるシャレムへと言葉を返したのは、黙って聞いていた私でもマスター・レアトリクスでもなかった。

「――やめなさい」

 落ち着いた、男の声。

「…………っ!?」

 その青年の声に、シャレムは息を呑んだ。
 三人の元に新たに現れたのは、二十代くらいの青年で、やはり私たちと同じようにアトラ・ハシースの僧衣を身につけている。

「お兄――……マスター・アーレスト」

 思わず出かけた言葉を呑み込んで、シャレムは青年を前に何とも複雑な表情になった。
 私も新たにやってきた青年に対して、無言のまま軽く礼をする。
 彼はウルクス・アーレストといい、最年少でマスターになった経歴を持つ、シャレムの兄だ。

「どうしてこちらに……?」

「君が騒いでいるだろうと思ってね。案の定か」

「……っ。ですが、それは……」

 目に見えて、シャレムは困った様子になった。
 今回のことに不満はある。しでもその不満を文句として、この兄にだけは言えないのだのだろう。
 彼女の唯一ともいえる、泣き所――それが兄のマスター・アーレストだった。

「今回君達が外されたのは、まだその立場にないからだよ。忍ぶことも覚えなさい。そもそも貴族というものは、その矜持で他者に忍ばせる存在でもあるからね。それを理解することも大切だ」

 優しく、諭すように言われて。

「…………はい。申し訳ありませんでした」

 項垂れるように、シャレムは首肯した。
 何ていうか、妹とは対照的な兄である。カリネに対してもそうだけど、兄に対してもシャレムはとことん弱い。
 それを見て満足そうに頷くと、マスター・アーレストは振り返ってマスター・レアトリクスへと頭を下げる。

「シャレム・アーレストの非礼、できることならば私に免じて目を瞑っていただきたく」
「構いませんよ。問題はありません。あるとすれば、彼女たちが承服していただけるのかどうか、それだけです」

 そう言って、マスター・レアトリクスはさりげなく私に視線を走らせた。

「…………?」

 なんだ?
 ほんの僅かな一瞥に、確かに違和感を覚えた。
 明らかに、妙な一瞬だった。
 それをはっきりとした疑問として思う前に、傍らのシャレムが荒々しく踵を返す。

「――しろ、とおっしゃるのならばそういたしますわ。では失礼を」

 背を向けたまま、視線を合わす余地すら与えず一方的に告げると、彼女はそのまま出口に向かって歩き出してしまう。
 これ以上兄の前にはいられない、か……。

「あなたはどうですか? リーゼ・クリスト」

 シャレムの態度など全く気にした様子も無く、マスター・レアトリクスに問われて、私は部屋を出て行ったシャレムに視線を送りながら小さく頷いてみせた。

「一応、先任のアージェントは彼女です。彼女がそう決めたのならば、私も従う」
「そうですか」
「……すまないね、ミス・クリスト。あの子と一緒では君も大変だっただろう?」

 気遣うような言葉を、苦笑と共にマスター・アーレストにかけられて、私もつい苦笑をこぼしてしまった。

「……いえ。それでは」

 簡潔に答え、私ははすぐに部屋を後にした。
 とりあえず、シャレムに一言言ってやらないと。


■《視点 三人称》■


「リーゼ・クリスト、か……」

 二人が出て行った後、残されたウルクスが何気なくつぶやいたのを聞いて、ジークリンデは小首を傾げる。

「彼女が、何か?」
「いえ……。あの妹がほとんど唯一、このアトラ・ハシースの中で意識している相手ですからね。ここへ来た経緯も不明なところもありますし、いったい何者なのかと気になるわけです」
「マスター・レーゼンの秘蔵っ子でしょう」

 それは当時、それなりに噂になったことでもあった。
 枢機会議の一員でもあり、当時としては最高ともいわれた実力者であったラゼル・レーゼン。彼はギルス・ラーバーという弟子を最後に聖界から退いていたにも関わらず、ある時一人の異国の少女を弟子として育てると宣言し、復帰したのだった。
 レーゼン家はアーレスト家と並ぶ、アトラ・ハシースの名家の一つであり、その当主であったレーゼンに見出された少女ということで、リーゼの存在は一時噂になったのである。

「ところがそのマスター・レーゼンは数年前から行方不明です。しかもその足取りは、彼女の故国で途切れていますからね。ミス・クリストと関係があるのか無いのか……」
「そのようなことは分かりかねます」
「そうですね。我々のような者は、いつどこで何があってもおかしくありませんからね……」

 ウルクスは一人で頷き、一歩下がって一礼する。

「シャレムのことに関しては、またよく言って聞かせておきます。この度は手間をおかけしました」

 もう一度謝罪し、そのまま立ち去ろうとしたところで、彼は何か思い出したように足を止めた。

「――申し訳ありません。もう一つだけ、よろしいですか?」
「なんでしょう?」

 表情も変えず、ジークリンデは先を促す。
 充分に言葉を選んでから、ウルクスは言った。

「今回、マスター・ローレッドより伝言を預かったのは私だけだと思っていましたが……。マスターが、枢機会議のあなたにも後任をされていたとは意外でした」


■《視点 シャレム》■


 カツカツと響くような足音を立てて、聖堂の地下に作られている狭い廊下をわたくしは突き進んでいった。
 どうにも腹立たしく、我慢ならない。
 今回の任を外されたことがその最たるものであるが、リーゼがそのことに関して少しも不満を言わなかったことが、余計に癇に障った。
 所詮は他の者と同じなのか、と落胆さえした。

 少し思い返してみる。
 これまでわたくしとコンビを組んだ者は少なからずいる。でも大抵がわたくしの言いなりだった。実際わたくしは優秀だし、ミスなどしたことも無い。だから当然だと思っていたし、事実これまでは何の問題も無くやってこれた。
 そんなわたくしが唯一、どうしようもなく気になった相手がいる。もちろんリーゼのことだ。名家出身で貴族の自分とは違い、どこの馬の骨とも知れない異国の少女。引退していたマスター・レーゼンが彼女を弟子にすると通達した時も、何だこの生意気そうな小娘はとしか思わなかった。……実際、とても生意気で。
 それでも最初は歯牙にもかけなかったというのに、その後彼女は地味に頭角を表わしていったのである。
 そして気づいてみれば、いつの間にやら自分と同じ、アージェントという地位にまで上り詰めていた。

 若干十七歳。これはわたくしがアージェントに昇格した時の年齢よりも、半年ほど早い。
 さすがに焦ってしまった。
 現在アトラ・ハシースにおける若い世代の中で、文句無しにトップにいるのは天才と呼ばれているわたくしの兄であるウルクス・アーレストで、最年少でマスターとなっている。わたくしもまた、その兄に続く勢いだったというのに、そこに割り込んできたのがリーゼだったのである。
 いつの間にやら背後に迫っていて、気づけば抜かれている――そんな状況を想像して、さすがに戦慄した。
 このままでは最年少マスターの記録すら塗り替えかねない。そんなリーゼの存在を改めて認識した途端、これまでくすぶっていた対抗心が激しく燃えることになったことは否めない。

 自分のことは、まあ……構わない。不快ではあるけれど、まだいい。そもそもわたくしはアトラ・ハシースでの地位にはさほど興味が無かった。しかし敬愛する兄を追い越そうとすることに関してだけは、傍観しているわけにはいかなかった。
 かといって単純にリーゼを邪魔するというのは、わたくしの誇りが許さないし、何よりそんな発想すら浮かびはしなかった。だからわたくしが決心したのは、リーゼよりも早くマスターに昇格すること。だからこそこんな所で任を外されるなどという汚点を残すことは、耐え難かった。
 だっていうのに。

「――シャレム」

 後ろから声が響いた。リーゼが追いついてきたらしい。……ふん。

「何ですの?」

 振り返りもせずに、聞き返す。そんな様子に、背後からはため息の気配。
 ……なによ、その態度。
 恐れも躊躇いもなく、わたくしに批判や反抗してくる少女。それが格下の無礼な言であったのならば、わたくしは容赦無く踏み躙っていただろう。しかしリーゼには自分に劣らないだけの実力があった。あると、そう認識している。
 だから今回初めてリーゼと組むことになり、その実力を垣間見るためのいい機会だったのだ。なのに……。

「貴女とのコンビは解消になったはずですわ。もう馴れ馴れしく呼ばないで下さいます?」

 つい刺々しい台詞を吐き出してしまう。
 彼女の足音はどんどん近づいてくる。

「お前が私をどう思うと勝手だけど」

 追い抜きざまに。

「私は別に、お前のそんな性格は嫌いじゃない」
「――――」

 そんな風に言われて。
 不意打ちだった。
 見ればもう、リーゼの背中しか見えない。
 どんどん先に行ってしまう。

「っ……」

 わたくしはどうしようもなく、唇を噛み締めた。


■《視点 リーゼ》■


「ただいま」

 夜になって。

「おかえりなさい、リーゼちゃん」
 家に戻った私を出迎えてくれたのは、いつも笑顔を絶やさないカリネだった。

「今日は早かったのね。お仕事はもういいの?」
「うん……。もう終わったから」

 上着を受け取ってくれたカリネへと、曖昧に頷く。

「おじさまは?」
「父さんならまだお仕事」
「そうか」

 居間のソファに腰を落ち着けて、私は少し疲れたように息を吐き出した。

「ごはんはまだでしょ?」
「うん」
「じゃあ作るから。待っててね」

 夕食の準備はしてあったらしく、カリネは手際良く食事の用意を進めていく。そんな彼女の様子を眺めながら、本当にいいひとだと今さらのように思う。
 カリネ・クリスト。
 私が住み込んでいるクリスト家の次女で、一応姉のような存在だ。

「……姉さま、か」

 私はクリストという姓を名乗っているものの、元々この家の人間ではない。実家を飛び出し、有名だったアトラ・ハシースへとやって来たのは私が九歳の時の話だ。
 当時名の知れたレーゼン家の当主の門を叩き、必死に頼み込んでその弟子にしてもらった。しかし九歳という年齢はまだ幼く、当主であったラゼルは自分は技術を教えても養育はできないと言い、レーゼン家の家令であるロイド・クリストにその身を預けたのである。
 今思い出せばすいぶんな無茶をしたものである。

 もちろん私に否応などあるはずもなく、それからクリスト家で育てられることになった。その際におじさまにつけてもらったのが、リーゼという名前である。
 後から知ったことだが、その名前はカリネの姉だった人物の名前らしく、すでに他界してこの世にはいない。
 おじさまが私を預かってくれて、その名前をつけたのはその辺りにも原因があるのだろうが、私自身は深く聞くつもりはなかったし、おじさまから語られることもなかった。

 理由は何であれ、どこの誰とも分からない自分のことを、おじさまとカリネは随分良くしてくれている。
 特にカリネは、本当に姉のように接してくれた。
 普段から優しくて、料理がとても上手で。
 それでも私はカリネのことを姉と呼んだことは無い。
 いつも冷たいくらいに厳しくて、料理がどうしようもなくできなくて。
 それでもでたらめのように強い姉。
 私にとって、姉さまは唯一だったから。

「…………いつまで私は」

 少し情けなく思いながら、私は苦く笑う。
 こんなことを考えているとどんどん陰気になっていくので、無理やり話題を変えることにした。

「なあカリネ」
「ん、なあに?」
「シャラ=イスタって、知っているか?」

 ただ本当に何気なく、そう聞けば。

「え……」

 息を呑むような気配が伝わってきて、逆に私の方が戸惑ってしまった。

「どうかしたのか……?」
「え、なに?」
「だから、シャラ=イスタっていう薬の会社の話」
「あ、うん。知ってるよ」

 すぐにもいつもの表情に戻って、カリネは頷いた。
 気のせいか……?

「アジェステリアに本社がある製薬会社でしょ?」
「らしいとは聞いた。昔からあるのか?」
「そんなに古くは……なかったと思うよ。あ、でも私が生まれる前だと思うから、そうでもないかな。ここからそんなに遠くない場所だし、大きな会社だから、みんな知ってるよ」
「そうか」

 ちなみに自分は知らなかったわけで、少し恥ずかしく思う。
 シャレムにも言われたが、興味の無いことにはとことん興味が無いのは事実だ。実際この国に来てからの八年ほどは、ほとんどアトラ・ハシースでの修練に費やしていて、それ以外は何もしていなかったとも言えなくない。一応人並みに学校に通ってはいたものの、友人を作って遊ぶということもあまり無かった。

「製薬会社だっていうけど、何を作ってるんだ?」
「さあ……? さすがにそこまでは知らないよ」
「そう……だな」

 それもそうか。
 頷くと、今度はカリネが不思議そうに首を傾げてみせる。

「どうしたの? 急にそんなこと聞いて」
「……いや。なんでもないんだ」

 カリネはもちろん、例え家族であろうと、アトラ・ハシースでの仕事の話をすることは禁止されている。
 だから私はそうとだけ答えて。
 夕食ができるまでの僅かな時間を、まどろみに身を任すことにした。






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